樋口円香話途中(加筆)
辺りは暗闇。そして土砂降り。まるで、バケツをひっくり返したような勢いだと、よく例えられるような悪天候。
そんな中。山深い道を、一台の車がとてもゆったりとした速度で走っていた。慎重な、安全運転だと円香にもわかる。
「すごい雨だな」
「ええ」
運転しているのは、プロデューサー。後部座席に、彼の担当アイドルである、樋口円香が座っていた。
ワイパーは速度全開で動いているけれど、ばちばちと弾丸のように打ち付ける雨で、視界が狭い。
「安全運転で行くからな」
「そうでしょうね。ミスター石橋叩き」
今回は秘境ロケという仕事で、二人は山深い地に来ていた。
朝早くから夜遅く。ようやくのことで解放され、帰路につく途中。
「なあ円香」
ちなみに、プロデューサーは他の仕事を終えてから、途中で合流した。そういうこともあってか、今日は社用車ではなくて、自分の車で来ていたのだった。
「こっちの車で、よかったのか?」
「一人の方がせいせいしましたか?」
「……いや。そんなことは」
他のスタッフ達は、別の車で帰っていった。
帰る際、円香はプロデューサーに言ったものだ。
プロデューサーと帰る、と。
『……よく知らない人達と一緒だと、緊張するから』
はぁと、ため息をつきながら、続けて言った。
『あなたの方が、気兼ねしなくていい。単なる消去法です。それだけのことですから』
変な勘違いをされたら困るから、はっきりと言い切ったものだ。
特にすることもないので、円香はスマホをいじっていた。
お仕事お疲れさま。小糸からの労をねぎらうメッセージに、円香の表情が僅かに綻ぶ。
そうかと思えば……。
ふふ。みてみて。クワガタ、持たせてもらった。なんかいいね。
浅倉からの、なんの脈絡もないメッセージ。クワガタの写真とともに、送られてきていた。
(浅倉……)
虫が得意ではない円香は、思わずぎょっとしてしまう。
それとほぼ同じ時間に、冬優子から、詫びのメッセージ。うちのあさひがごめんなさい! きつく言い聞かせるから! とのこと。
円香は理解した。
あさひのクワガタを借りた浅倉が、どういう気まぐれか、メールを送った。
それを知った冬優子が、あさひの行動を咎めた。ということだろう。円香が虫を好きではないと知っているから。
(まるで保護者)
円香は冬優子に、気にしてないよと、一言返信を送った。そもそも、咎められるのはあさひではなく、浅倉の方だろうから。
そうかと思えば……。
あは~。円香先輩みてみて。プロデューサーの席に座っちゃった~。いつもお世話になってます。な~んて。
「……」
雛菜から自撮り写真。
少し、イラッときた。そこには座らないでほしいし、プロデューサーが普段使っている電話に触らないで。円香はそう考えてる自分に気づいて、軽く頭を振った。
良くも悪くも、ノクチルの面々は賑やかで、退屈しない。
「円香。どうかしたか?」
「どうもしません。ちゃんと、前を見て運転してください」
きつい。我ながら、もっと言い方があるでしょと思う。
「何、ルームミラーでこっそり表情を伺ってるんですか。最低」
「ごめん」
気難しい担当アイドルの、機嫌を損ねてしまった。とか、そんな風に思われているのだろうか。円香は小さくため息をついた。
「高速まで辿り着けたら、後は早いんだけどな」
「さっさと帰って、こんな小うるさいのを降ろして、せいせいしたいのですね」
「円香は静かだぞ?」
そういう意味じゃない。円香は少し奥歯を噛みしめた。ぎりっと、鳴ったような気がした。
「……。プロデューサーは、私のどこがいいのですか?」
「円香?」
特別に、目をかけてもらっているとわかる。
担当アイドルだから? それは確かだけど。
「ご覧の通り、愛想がなくて。口も悪い。アイドルなんて、笑っておけばいい楽な仕事だなんて、舐めきった態度」
雨は更に強く、車体に叩きつける。
車載のステレオや、ラジオもオフ。
辺りは暗く、対向車にすらしばらく出会っていない。
まるで、世界に二人だけ、取り残されてしまったかのよう。
「日頃、散々悪態をつかれて、あなたはうんざりしないのですか?」
……丁度、あまり使われてなさそうな、広い駐車場があった。
舗装もされていない砂利引きで、雑草が生い茂ってる。森に面していて、ヘッドライトを消せば、誰にも見つけられないだろう
プロデューサーは、そんなところの片隅に車を停めた。長時間運転してきたし、少し休憩でもしようかというところ。
「うんざりなんて、しないよ」
「どうしてですか?」
「円香はいつも俺のことを、気遣ってくれているから」
どこが!
円香の表情が険しくなる。
「……自意識過剰。思い上がりも甚だしい。ミスター勘違い」
慌てて言葉を並べても、無駄だ。
「担当アイドルに媚びへつらう社畜。こんな生意気な小娘に言いたい放題言われて、ろくに反論できないいい格好しいの優男」
「円香は」
プロデューサーは、穏やかに笑いながら、聞いた。
「俺のこと、嫌いか?」
悪態すら、出てこなかった。
「……嫌いな人と、二人で帰りたいだなんて。言いません」
視線を合わせることが、できなかった。
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後部座席で、並んで座る。
高級車だけあって、広々としている。
「車で、二人きりなのをいいことに、担当アイドルに手を出すプロデューサー」
「通報されたら、俺の人生終わるな」
こういう場合、男の言い分など、誰も聞かないことだろう。そういうものだ。
「まあ。円香に通報されるのなら、仕方がない。嫌われてしまったんだって、諦めるさ」
「そんなこと、するわけないでしょう?」
円香の声に力がない。
「そんなことをしたら……。あなたが私の側から、いなくなってしまうじゃないですか」
仮定の未来を想像して、寂しさと悲しさがこみ上げた。
円香のメンタルは、見た目ほど、強靱なものではなかった。
「担当アイドルを泣かせる悪い人。早く、フォローしてください」
理不尽。我ながらめちゃくちゃな言いようだと、円香は思った。
彼はこんな、性根のねじ曲がった自分を受け入れてくれる。
軽く、重なり合う唇。
円香はもぞもぞと左手を動かして、プロデューサーの手を探し、掴んだ。
「いつまで……。んん」
悪態をついて恥ずかしさを誤魔化そうにも、プロデューサーは離してくれなかった。
円香はただ、左手でプロデューサーの右手を掴むだけ。
(どれだけ、したかったの。いい加減に……)
円香は力を抜いていた。
拒否しようと思えば、いつでもできた。少し力を込めて引き剥がし、キスばかりしてないでと、非難すればいい。
なのに、しない。できない。
温もりが心地よくて、愛しさが溢れ出てくる。
(優しい)
円香は自然と、そう思っていた。
プロデューサーは、掴まれていた右手を開いて、円香の左手に重ね、組んだ。
「ぷろ……」
時間にして数十秒。決して長くはなかったはず。それなのに、唇が離れると、切なさが円香を包み込んだ。
こんな時。もっとしてくださいと、素直にお願いをできればよかったのに……。
円香が自己嫌悪に浸っていたその時。
「ぁ」
ハグ。それとともに、強引な、奪うかのように荒々しいキス。
円香は驚いて、目を見開いていた。
プロデューサーが、そんな強気にしてくることなんて、今まで無かったから。
「ぅ……」
円香の口をこじ開けて、ぬめりを帯びた舌が入り込む。
眠気覚ましに飲んでいたであろう、微糖タイプの缶コーヒー。苦みを帯びた味を、円香はまるで媚薬のように感じていた。
(……好き)
円香はいつの間にか、両腕をプロデューサーの背中に回していた。離れないでと、力を込めて。